人は一生働き続ける必要がある?
橘玲氏のツイートに思うところがあったのでつい反応してしまいました。
「橘玲が語る「残酷すぎる“お金の真実”」」 https://t.co/zvcpDIqHWb 『日経ビジネスAssocie』のインタビューがネットにも掲載されました。世界はどんどん「生涯現役化」している、という話をしています。
— 橘 玲 (@ak_tch) February 14, 2018
論旨は概ね賛成ですが、大多数の人間にとって苦行でない程々の仕事など無いのが現実であって、じゃあ出来るだけ苦行の時間は短く、稼げるだけ稼いでリタイアしたいと言う考え方もあっても良い。一生働くのと同じく、出来る出来ないは別で。 https://t.co/CyM8gKgTiQ
— パンダック (@razoio) February 14, 2018
橘氏の意見によると、米国でのライフプランとして、1990年代までは、アーリーリタイアがライフプランの理想形であったが、高齢化と「自分の可能性を100%生かして働ける社会が理想」という考えが主流となりつつあり、「社会に何らかの貢献をしている市民だけが、社会から恩恵を受けられる」即ち働いて税金を納めることをしないと差別される社会が到来しているだそうです。
日本は例によって遅れているが、いずれ欧米に追い付くことを考えると一生働き続けることが前提の社会になっていくだろうということでした。
そのあとは例によってそういう思想とは別に、現実的にも社会保障費や税金などの負担を考えると、60歳定年時に残りの人生40年分の費用をためることは現実的に不可能なので、一生働き続けることが必要という趣旨が展開されます。
後半部分の60歳で定年となる際に残りの人生分の貯蓄を得ることは”普通は”不可能という意見には概ね賛成なのですが、働いていないと差別される社会というのもなんとも息苦しい感じです。
しかし、そういう思想が主流になって来ているの事実として受け入れるとして、そうなった場合アーリリタイア志向の私、もしくはこのブログを読んでくださっている皆さんはどうするのが正解なのでしょうか?
貯蓄を取り崩して暮らすことは社会に貢献していないのか?
まず最初に思うことはこれです。
社会に何らかの貢献をしている人だけが社会から恩恵を受けられるというのならば、お金というのは労働者にとっては労働の対価なのですから、持っている財産の大小がどれだけ社会に貢献したかを測る物差しそのものです。
すなわち人生の半分での残りの人生を賄えるだけのお金を稼いでいるなら、その人は通常の人の一生分はすでに社会に貢献しているわけで、その後貯蓄を取り崩しながら生活をしても社会に貢献していないとは言えないと思います。
人生の残りを遊んで暮らすことで「自分の可能性を100%」生かしていないといえるかもしれませんが、人生の前半部分でその人の気力が尽きて、何もする気が起きず、あとは遊んで暮らしたいと思ったなら、それはその時点で自分の可能性を100%使いきったといえるのではないでしょうか?
資産運用で暮らすことは社会に貢献していないのか?
アーリーリタイア者は、貯金を取り崩すだけでなく資産運用で残りの人生を賄うことを考えている人も多いかと思います。
この場合は社会に貢献していないのでしょうか?
この問いにYESと答える投資家はいないと思います。
投資家は自分の資産を投資対象に拠出することでリスクをとるという仕事をし、その対価として利子、配当金、値上がり益を得ています。
したがって、この場合も「社会に何らかの貢献をしている市民だけが、社会から恩恵を受けられる」という思想の、社会に何らかの貢献をしている市民ということになります。
アーリーリタイアという選択肢は何も恥じることはない
結論として、「社会に何らかの貢献をしている市民だけが、社会から恩恵を受けられる」という思想がメジャーとなったとしても、アーリーリタイア者は自分の財産で暮らしている限りは何ら後ろ指をさされるいわれは無いということです。
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